旅館 芳野

芳野の歴史

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芳野の歴史History of Ryokan Yoshino

※昭和15年発行の人吉温泉案内。上図のほぼ中央が当館。下図のように裏面が封筒になっており、これを折りたたんで郵便で出せるようになっている。

明治40年、すべてはここから

 明治40年、熊本で郵便関係の運送業で財をなした初代館主 田口豊吉が肥薩線開業(人吉駅)間近で賑あう人吉で事業を始める。
安藤家(相良氏700年の歴史有る人吉藩の御典医)の女(娘とも姪とも伝わる)初代女将、与津子と出会い運送業の傍ら仕出し屋を始める。

 明治42年6月、女将の実家の一部、座敷を使い(現芳野旅館自宅)で人吉駅関係者や材木商相手の料亭「吉野本店」創業。 事業に成功し料理屋「吉野分店」など支店をいくつか出店。明治45年(大正元年)2月初代女将(享年31才)で亡くなる。
 大正2年正月、本格的に安藤家の屋敷跡を 料亭「芳野」とし増築、山田川沿いに百畳敷き三階の建築物を建て、多くの県内外の政治家や文化人に愛され賑う。 しかし、初代館主の「料亭文化」は残さない文化との考えから「個人の秘密は厳守」で記録などは何も遺されなかった。

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昭和初期、旅館を併設

 昭和初期(元年~5年間要したと伝わる)敷地内に温泉(上総堀で自噴)を掘り旅館を併設、現在の広間は昭和6年4月30日京都で修行した宮大工、和賀篤三郎棟梁、鹿児島の後藤氏、左官は安部氏により建てられた。その後初代館主は熊本市内に料亭.割烹「吉野家」開業、熊本市内に居住 旅館「芳野」は二代館主に引き継がれた。
 昭和19年7月21日~22日集中豪雨、山津波で三階建ての建物は地面ごと流失。 その時二代目館主が他の建物の流失を防ぐ為、大広間のとの境を命がけで斧を振るったと伝わる。 現在残る建物は木造二階建て、茶茎の壁、古い船板、竹細工、古木の床の間など、その当時の珍しい建材を使用した大正ロマン調の造りなど、一部屋ごと違う造りで料亭時代の色を今に残している。

 屋敷全体風水で造られ、特に玄関は不思議な方向を向いて建てられている。昔からの言い伝えで、門で振り返り玄関の不思議に気が付くとその方の運気が上がると言われている。 中庭は御典医安藤家(芳野)、人吉城の庭、武家屋敷、永国寺、青井神社大宮司邸の 庭と同門の庭師の作だと伝えられ(相良藩五大庭園)、亀石、鶴石、花立、お稲荷さん、玄部の祠灯篭、松、池など 古き良き時代の趣が随所に残しています。 又、芳野の庭園は黄檗宗の影響を強く受けた庭(2012夏 奈良国立博物館木管 解読)とも伝わります。

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木造3階(左)と一・二・三・五番棟(昭和六年上棟)

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裏玄関(料亭部・右)と居間の玄関、さらに左に建物がみえる。(昭和初期頃)

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一・二・三・五番棟と大広間が屋根続きになる(昭和30年代)

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木造3階大広間での宴会風景

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人吉の温泉案内の冊子。(昭和14年7月発行)

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人吉の温泉案内の冊子。(中面)

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一・二・三・五番棟の棟札(昭和6年4月30日上棟式)

四季と共に歩む旅館

 外庭には、桜の木が十数本有り窓一面の桜は春には見事。 浴場近くの山桜の大木は70数年前大水で球磨川から流れ着き、それを拾い植えたと伝わる。三代館主死去に伴い墓地改修したことにより初代女将の存在や「芳野の歴史」が判明。

平成25年3月29日
「国登録有形文化財」に登録

 登録有形文化財は、近代の古き良き建造物が開発や生活様式の変化などによって消滅するのを防ぎ、活用しながら後世に残していくために作られた制度。 建築後50年を経過し、国が定める登録基準に該当したものが登録されます。

登録された文化財の概要

※小説家 司馬遼太郎が宿泊した客室

◆登録された文化財の概要
本館、別広間棟、居間棟、従業員棟
◆建築年代
本 館1931(昭和6)年
別広間棟1913(大正2)年
居間棟1888(明治21)年
従業員棟大正前期
◆建築年代
住宅から温泉旅館へと変遷した経緯をよく伝えている点
・舟や水車の古材、竹や木を用いた数寄屋風の風情ある客室
・建物群が中庭を囲むように建ち、温泉旅館の風情を醸し出している点